翻訳と辞書
Words near each other
・ 1968年シンガポール通常選挙
・ 1968年バスケットボール女子アジア選手権
・ 1968年ミラノ・トリエンナーレ
・ 1968年全仏オープン
・ 1968年全仏オープンテニス
・ 1968年全米オープン (テニス)
・ 1968年全米オープンテニス
・ 1968年全豪テニス選手権
・ 1968年冬季ユニバーシアード
・ 1968年十勝沖地震
1968年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)
・ 1968年日本グランプリ (4輪)
・ 1969 (アルバム)
・ 1969 (映画)
・ 1969 (曖昧さ回避)
・ 1969-1970シーズンのNBA
・ 1969年
・ 1969年NFLチャンピオンシップゲーム
・ 1969年のAFL
・ 1969年のF1世界選手権


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

1968年度新人選手選択会議 (日本プロ野球) : ウィキペディア日本語版
1968年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)[1968ねんどしんじんせんしゅせんたくかいぎ]
1968年度新人選手選択会議(1968ねんどしんじんせんしゅせんたくかいぎ)は1968年に行われた第4回のプロ野球ドラフト会議である。
== 概要 ==

* 1968年11月12日東京・日比谷日生会館において開催された。
* 第3回まで非公開で行われていたが、本年より会議の一部始終がマスコミに公開されるようになった。
* 予備抽選で選択指名順を決定し、1位・3位・5位などの奇数順位の指名順は予備抽選の1番→12番、2位・4位・6位などの偶数順位の指名順は奇数順位とは逆に予備抽選の12番→1番に遡る選択指名順を取った。
* 予備抽選の結果は東映 - 広島 - 阪神 - 南海 - サンケイ - 東京 - 近鉄 - 巨人 - 大洋 - 中日 - 阪急 - 西鉄
* 指名選手数は無制限。
* 長嶋茂雄の持っていた東京六大学リーグ通算本塁打記録を大幅に更新した法政大学田淵幸一を筆頭に、田淵と共に法政三羽ガラスと呼ばれた山本浩司富田勝、法政三羽ガラスのライバルと言われ東京六大学リーグで通算23勝(内ノーヒットノーラン1回)を挙げた明治大学星野仙一東都大学リーグ通算20本塁打の新記録を打ち立てた亜細亜大学大橋穣や、近畿大学有藤通世、第18回日本産業対抗野球大会で優勝した全鐘紡のダブルエース、藤原真水谷宏が注目された。また、金田正一の弟の金田留広も東映に4位指名され入団した。
* 指名順位1番の東映は大橋、2番の広島は山本、3番の阪神は田淵、4番の南海は富田、5番のサンケイは藤原、6番の東京は有藤、7番の近鉄は水谷をそれぞれ1位指名した。
* 田淵は巨人入りを希望していたが、阪神が強行指名。巨人はこの時、田淵が指名できなかった時は星野を指名すると約束していたが、この約束を反故にして武相高校のエース・島野修を指名〔週刊ベースボール2013年12月2日号 P36〕。星野はこれを聞いて「ホシとシマの間違いじゃないのか」と激怒したと言われ、この出来事が星野を後に「巨人キラー」として活躍させる原動力になったとされている〔週刊ベースボール2013年12月2日号 P36〕。
*
* 陸上男子100mで当時の日本記録を更新し、1964年東京オリンピックメキシコオリンピックに日本代表として陸上男子100mに出場した茨城県庁飯島秀雄も東京に9位指名され話題を集めた。
* のちに名球会会員となる大島康徳山田久志加藤秀司福本豊東尾修もこの年にプロ入りしている(山本、有藤も同会会員。同じく会員の門田博光も指名されたが、入団せず)。また山本、田淵、星野、大島、山田、東尾、有藤は現役引退後に一軍監督を務めている。
* この年は、プロ野球の歴史に名前を残す名選手が数多く指名され入団を果たした事から、「空前絶後の大豊作の年」と呼ばれている。ドラフト会議の対象となった選手は、大卒が1946年(昭和21年)生まれ、高卒が1950年(昭和25年)生まれといわゆる「団塊の世代」であり、最も層が厚かった世代である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「1968年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.